はじめに
私が代表を務める株式会社ユー・ファイブ
と株式会社ファイブスターは、BMW MINI
と光岡自動車の正規ディーラー、
福祉車両事業に従事しています。
そして、自転車の販売業から歩みだした
株式会社ユー・ファイブは、
今年で創業109年を迎える事が出来ました。
大正14年 先代がスタートした「山梨自転車店」は、当時は珍しいショーウィンドウを設置した店舗。自転車に乗るファッションまで提案した。
2018年、3月2日にリニューアルオープンし株式会社ユー・ファイブ MINI甲府。最新の設備と世界でも珍しいウッドデッキやMINI甲府オリジナルの内装をショールームで表現した。
反骨精神がみについたのは
私が日川高校に入学したのは昭和63年。
当時、普通高校への進学を希望していた
両親に、日川高校の受験資格が取れたと
報告が出来た喜びは、今でも鮮明に
覚えています。中学時代の担任から
「日川高校への進学は難しいだろう」
と言われていた私にとって、同校の
入学は奇跡のようなものでした。
そうして私は、大きな期待を胸に入学
したのですが、先生方から事あるごとに
言われたことは
「君は入学試験の合格ラインギリギリだった」
という衝撃的な言葉でした。
しかし今となっては、それが反骨精神となり、
都会でチャレンジしてみたいという活力へ
と変化していったように感じています。
ニューヨークへのあこがれ
高校卒業後、都内の
インテリアデザイン専門学校に入学。
興味のあることや好きなことに
のめり込む性格もあり、デザインの世界に
没頭した学生時代を送りました。
在学中に出会った、アメリカの美術家で
ポップアートの巨匠、アンディ・ウォーホル
や、同じく1980年代のアメリカ美術を
代表するアーティスト、キース・ヘリング、
バスキアなどの世界観に大きく影響を
受けて、友人と共に訪れたニューヨークが、
その後の私の人生を大きく動かす事に
なりました。
初めて行った海外旅行N.Yで病気になり、エンパイア・ステート・ビルディングを
見ながら再びニューヨークへ行く決心をした。
2年後、再びニューヨークへ渡り、
4年間の留学を経験。
何とか地元の人に馴染もう一生懸命。格好付けているが、半年間英語が話せず
授業にも付いて行けず毎日朝まで英和辞典とにらめっこしていた時。
言葉が話せるとこれだけ人生が変わると実感し楽しみながら生活する喜びをしった頃。
(ニューヨークの出来事は、また書きたいと思います。)
その後も海外での生活を繰り返し、
通算15年もの月日を海外で過ごしました。
人生の転機
高校時代に培った反骨精神で、語学や
コミュニケーション能力を高め、
幅広くインテリアデザインを学んだ結果、
その後就職した日本企業では、グローバル
ビジネスや海外展開チームの一員として、
日本のみならず、インドや中東ドバイでの
プロジェクトに携われるように
なっていきました。
ZiQoo Hotel Apartment Dubai エントランス
日系企業初のドバイへのホテルビジネスをオープンするプロジェクトに建物の施工管理、内装デザイン施工管理そして家具のデザインを担当し関わる。
各部屋の家具は、全てデザインを担当させて頂き最高の経験をさせて頂いた。
自動車販売を軸に、3つのショールームを
構えていた家業の職場には
「一切顔を出してはならない」という
父親の教えもあり、故郷山梨に戻る事なく、
自ら選んだ道で必死に働きました。
そして、ドバイで出会った経営者に声を
かけてもらった仕事を切っ掛けに独立。
彼が運営する世界一大きなショッピング
モール・ドバイモール内のカフェでの
デザインやメニューの開発や、スタッフ
トレーニングを担当しました。
ドバイモール内にある紀伊国屋書店内のカフェ。目の前は世界最大の雲水ショーがみえる。
日本のカフェスタイルのメニューや日本の接客を売りに展開したKino's Cafe
同モール近くの日本食レストランでは、
新規立ち上げまでの手続きやデザイン、
メニュー開発など幅広く携わり、現地の
人々からの厚い信頼も得ることが
出来ました。
沢山の苦しみや困難があったからこそ、この笑顔。アブダビのローカルオーナーから任された「MIZU Japanese Restaurant 」
事業も軌道に乗り、公私ともに安定して
きた最中、
「お父さんが交通事故に遭い危篤状態なの」
という連絡を受けました。
すぐさま日本へ帰国、
ここから私の第二の人生が幕を開ける事に
なるのです。
第2話へ続く。。。
天地の正気で紹介された記事です。
日川高校1
クルマのバリアフリーを目指す!
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